ブラジルのFunkとは? ファンキの歴史その1【1980s~2000s】

特集
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はじめに

2022年大ヒットしたファンキの曲、L7NNON & OS HAWAIANOSの”Desenrola Bate Joga de Ladin (Dj Bel da Cdd e Biel do Furduncinho)”

バイレファンキ(Baile funk)やブラジリアン・ファンク(Brazilian funk)とも呼ばれるファンキ(Funk)。アメリカのヒップホップとはまた違うブラジルらしい魅力にあふれており、世界中の音楽ファンをとりこにしてきました。

私も地球の反対側でファンキを楽しんでいる一人です。レイブに行くようなパリピではなく、孤独に音源をあさるだけのオタクなのですが、オタクなりに毎日ファンキを聴いてきました。

ファンキはもともと爆音でかけて踊るための音楽で、理屈抜きで楽しめるのが魅力です。

ただその一方で、「分かりにくい」ジャンルだと思います。

「同じファンキでも、今と昔とではリズムもサウンドも全然違うのが謎だな──。」

メロウな歌からエッジの効いたテクノみたいな音楽まであるけれど、それらが全部ファンキとひとまとめにされるのは、正直よく分からないな──。」

こういった疑問を私も抱きつつ、なるべく色々な音源を聴いたり記事を読んだりして、自分なりに納得のいく答を探してきました。

そんな私が集めた情報を整理することも兼ね、これからの連載記事では、ファンキの歴史をたどり、代表的な曲を紹介しながらジャンル全体をマッピングしてみようと思います

今回の記事では、ファンキの誕生から2000年代までを扱います。「ファンキ・プロイビダゥン」のようなサブジャンルもひとつひとつ見ていくつもりです。

なお、ファンキはもともとアンダーグラウンドな文化で、日々新しい音楽が生まれ、イベントがおこなわれています。この連載記事は、そういった現場の生の情報ではなく、最新情報でもありません。あくまでも、音源化したブラジル・ポップスを日本で楽しむために知っておくと便利なことをまとめた記事なので、その点を最初にご了承ください。

ファンキ(Funk)とは?

まずは「Funk」というジャンル名の読み方について。日本語だと子音で終わる英語に「-u」を補って「Funk-u(ファンク)」と発音しますが、それと同じように、ブラジルのポルトガル語では「-i」を補って「Funk-i(ファンキ)」と発音します。

ブラジルのファンキは、アメリカのヒップホップ(Hip Hop)の影響を受けて生まれたブラジル独自の文化です。スペルは同じ「Funk」でも、アメリカのファンクとは完全な別物なので、区別するために「ファンキ・カリオカ」(Funk carioca)と呼ばれます。「カリオカ」というのは、「リオ・デ・ジャネイロの人」のことです。

その名前のとおり、ファンキはリオデジャネイロファヴェーラ(スラム街)で生まれたストリート・カルチャーです。音源を爆音で再生し、みんなで踊るパーティー文化の中で発展してきた音楽で、音楽だけでなくダンスもまた重要な要素と言えるでしょう。

ファンキのダンスについて解説している動画

このダンスの動画でも明らかなように、「ツッチャッチャ、ツッチャッチャ」というアフリカ由来のリズム(「タンボルザゥン」Tamborzãoといいます)が最近の主流となっています。ただ、「このリズムこそがファンキ」というわけでもないようで、時代や地域によって全然違ったリズムやサウンドになります。昔のファンキはマイアミベースっぽく、最近でもブレーガ・ファンキはフォホーっぽいリズムで、こういったバリエーションの豊かさ、「自由さ」も魅力のひとつです。

なお、ダンスするパーティーをポルトガル語で「baile」(バイリ)というので、ファンキをかけてみんなで踊るイベントを「Baile funk」(バイリ・ファンキ)といいます。この言葉が元になって、日本ではファンキのことを「バイレファンキ」と呼ぶことが多いです。

INSIDE PARAISOPOLIS (favela): Baile funk in the streets! (pt 2) | RS101 Daily Vlog

↑ サンパウロの路上で開かれているバイレファンキに潜入する外国人目線の動画です。ファヴェーラの街歩きから始まり、開始5分のところからバイレファンキ(動画ではFluxoと呼ばれています)の映像が始まります。現地の人たちの素顔も知ることができて、誇張や偏見の無い「リアルな感じ」があり、個人的にオススメの動画です。

なお、ファンキのアーティストは、男ならば「funkeiro」(ファンケイロ)、女ならば「funkeira」(ファンケイラ)と呼ばれ、ラッパーは名前の頭に「MC」(エミセー)をつけます。

ファンキの歴史

【1980年代】ファンキの誕生

リオデジャネイロのファヴェーラをうつした写真です。斜面に住宅がひしめきあっており、家も増築を繰り返していて、同じ形や色の建物がひとつもありません。カラフルで生き物のようなファヴェーラの向こう側には、都市計画によって整然と建設されたビル街が見え、とても対照的です。はるか彼方には、リオデジャネイロらしいこんもりとした山も見えます。
リオデジャネイロのファヴェーラ

それでは、ここからファンキの歴史をたどって見ていきましょう。

リオデジャネイロファヴェーラ(スラム街)では、レコードをかけてダンスするパーティー文化がもともとあったそうです。どんなレコードがかけられるかは、時代に応じて変化しました。

1960年代後半の時点では、国籍やジャンルにこだわらず色々な音楽がかけられていたようです。中でも特に人気だったのは、ジェームズ・ブラウンのようなアメリカのファンクを中心としたブラック・ミュージックでした。

アメリカのファンクをかけるダンスパーティー、「バイリ・ファンキ」(Baile funk)は、1970年代にファヴェーラで流行し、中には数千人規模の動員をするパーティーもあったようです。この時点では、あくまでもアメリカの最新音楽を楽しむ生活文化があっただけですが、ファンクに対するブラジル人の深い愛着ゆえ、のちに生まれるファンキ・カリオカも「funk」の名前を引き継ぐことになりました。

ブラジル独自のファンキという音楽が成立したのは、1980年代です。80年代には、ヒップホップのサブジャンルであるマイアミ・ベース(Miami bass)ラテン・フリースタイル(Freestyle)のレコードが持ち込まれ、パーティーシーンを賑わすようになります。そんな中で、打ち込みのドラム音を土台にブラジル独自の音を重ね、ポルトガル語のラップや歌をのせた音楽、すなわち「ファンキ」が生まれました。

ファンキの生みの親、DJ Marlboro

黎明期からシーンの最前線で活躍していたDJ Marlboro(ディージェー・マルボロ)は、ファンキを発展させ、その魅力を国内外に発信し続けたジャンル最大の功労者として評価されています

音楽面ではドラムマシンを導入し、サウンドを改良。イベントでDJをするだけでなく、アルバム”Funk Brasil”(1989年)のような音源をリリースしたり、ラジオ番組にも出演することで、「ファンキとはこういうものだ」という認知を広めていきました。海外の音楽イベントにも出演し、ファンキの魅力を世界中に発信した功績も見逃せません。

Melô Do Bêbado

↑ 1989年のアルバム”Funk Brasil”の中の一曲。最初期に音源化された「ファンキ」のひとつです。

ちょっと聴くだけでも、今のファンキとはリズムもサウンドも全然違うのに驚かされますよね。私の推測ですが、「アメリカから輸入したブラック・ミュージックをベースに、ブラジル流の楽しみ方をする」というのがファンキの原点なのではないかと思います。

ファンキのアンセム、”Rap da Felicidade”

DJ Marlboroの曲で一番有名なのは、ファンキのアンセムといえる名曲、”Rap da Felicidade“(ハッピ・ダ・フェリシダージ)です。

Cidinho & Doca – Rap Da Felicidade (Lyric Video)

1994年のリリースで、曲のタイトルは直訳すると「幸せのラップ」。DJ Marlboroがプロデュースし、2人組Cidinho & Doca(シジーニョ・イ・ドカ)が歌った曲で、今でも歌い継がれている名作です。

2016年にリオデジャネイロで開催されたオリンピックの開会式でも演奏され、そのときはLudmilla(ルジミーラ)が歌っていました。

今でも若いアーティストのライブでこの曲が演奏されると、観客が一丸となって合唱する様子が見られます。ファンキが好きならば、ぜひ歌詞を覚えておきたい一曲です。私なりに歌詞を訳してみたので、あわせて載せておきます。

Eu só quero ser feliz

Andar tranquilamente na favela onde eu nasci

É, e poder me orgulhar

E ter a consciência que o pobre tem seu lugar

「私はただ幸せになりたい/生まれた場所であるファヴェーラを安心して歩きたい/誇りをもてるようになりたい/貧乏人にも居場所があると思えるようになりたい」

“Rap Da Felicidade”

このような「平和を愛するアンセム」を歌っているCidinho & Docaですが、一方で「歌詞の意味を知ると怖い曲」も歌っています。詳しくは次の次の項目で紹介します。

麻薬組織とファンキ

さて、ファンキについて語るとき、避けて通れないのがファヴェーラに根を張る麻薬組織(traficantes)です。

日本でも「ファヴェーラは治安が悪い」というイメージが共有されていると思いますが、ファヴェーラはもともとインフラに乏しく、ある種の「自治」によって成り立ってきた社会で、麻薬密売などの違法行為をおこなうギャングがそれぞれの縄張りを支配してきました。

ギャングの抗争や警察との交戦に巻き込まれれば、一般人でも命を落とすことがある世界。そんなファヴェーラのギャング団もファンキのイベントを開いて資金源にしていたようで、ラップも「地元の組をたたえて敵の組や警察をディスる」というのがお決まりだったり、バイレファンキで集団が衝突して乱闘になり(「corredor」といいます)、死人が出ることもあったそうです。

こういった経緯から、ファンキのイベントが法律で禁止されたり、「バイレファンキは危ない、ファンキは犯罪者の音楽」という偏見差別も生まれました

禁じられたファンキ、Funk proibidão

身内のギャングを称賛したり、麻薬密売や武器所持のような裏社会の生き方を歌うファンキを、ファンキ・プロイビダゥン(Funk proibidão)といいます。「proibidão」は「非合法」という意味で、実際に放送禁止となり、アンダーグラウンドでカセットが売買された曲も多くあるようです。ただし、最近では「キケンな感じの歌詞全般」が「プロイビダゥン」と表現されているようにも思います。

Cidinho E Doca – Rap Das Armas (Original)

Cidinho & Doca(シジーニョ・イ・ドカ)が歌う”Rap Das Armas“(ハッピ・ダス・アルマス)、直訳して「武器のラップ」。

「パラパパパパッパッパパッパッパー♪」と歌い、明るくて楽しげな曲ですが、これは実はマシンガンが放たれる音です。

サビの歌詞は、「地元最高、警察も怖くないぜ!」みたいな内容で、曲が進むにつれてどんどん物騒になり、「地元をうろつく敵のギャングをぶっ〇せ!」みたいな終わり方をします。歌詞の意味を知ると、うかつに聴けなくなる一曲です(私は移動時に聴いています)。

もともとMCs Junior & Leonardoという2人組が1992年に作った曲で、オリジナルバージョンはもっと平和的な歌詞でした。それを、”Rap Da Felicidade”を歌って有名になったシジーニョとドカが「過激化」したバージョンが1995年に出回り、過激版のほうが話題に。歌詞が犯罪行為を称賛しているとして放送禁止になったものの、歌自体の人気まで禁止することはできず、2008年にはリメイクバージョンまで制作されています。

意識高い系ファンキ、Funk consciente

「歌詞を知ると怖い曲はちょっと…」

と思われたかもしれません。こういった犯罪賛美の要素が無いファンキ、さらに、後で紹介する「下ネタ」も無い、いわば「まじめ」なファンキも存在します。

その名も、ファンキ・コンシエンチ(Funk consciente。「consciente」は「意識している」と訳される言葉ですが、「いろいろ考えている」というような意味でしょう。歌詞がシリアスで、ファヴェーラの現状を批判する社会派の歌も多くあります。サブジャンルというよりも、あくまで歌詞の方向性を表現する形容詞といったほうが適切かもしれません。

【1990年代】Funk melodyの流行

さて、アンダーグラウンドのシーンが発展する一方で、1990年代には、ファンキ・メロジー(Funk melody)と呼ばれるメロディー重視の音楽が流行しました。恋愛を歌うポップスで、商業的にもヒットしています。

この種の音楽はラテン・フリースタイル(Freestyle)に影響を受けて生まれたそうで、マイアミベース由来とはまた違った源流をもつファンキだと言えます。

そして、このFunk melodyが、2000年代以降のポップなファンキの起源となっていきました。

Claudinho e Buchecha – Quero Te Encontrar (Clipe Oficial)

Quero Te Encontrar“(ケロ・チ・エンコントラル)は、1997年にClaudinho & Buchecha(クラウジーニョ・イ・ブシェッシャ)が歌ったヒット曲です。

とてもポップで、今のファンキとは全くテイストが違いますよね。この曲がどうして「ファンキ」なのか、私も最初は不思議な感じがしました。もしかすると「funk」という言葉は、この時点ではまだ「アメリカのブラック・ミュージック」という程度の意味だったのかもしれません。

Mc Marcinho – Glamurosa

Glamurosa“(グラムローザ)は、2001年にリリースされたMC Marcinho(エミセー・マルシーニョ)のヒット曲で、”Rap Glamurosa”(ハッピ・グラムローザ)というタイトルでも知られています。一度聴くと忘れられないメロディーで、私も大好きな曲です。

2000年代初めは、こういった「今のファンキの原形」のような曲がたくさんあるのですが、まだまだリズムやサウンド、歌詞やダンスが「固定化」されていない印象を受けます。

私の印象では、スタイルの固定化が一気に進んだのは、2005年頃です。ここでちょっと時代を先どりして、2006年のFunk melodyの曲をひとつ紹介します。

Perlla – Tremendo Vacilão

DJ MarlboroがプロデュースしたPerlla(ペルラ)のデビューアルバムの曲。2006年にリリースされて大ヒットし、日本盤も出されて日本国内のブラジルディスク大賞にも入賞、Perllaは来日公演まで果たしています。ここで紹介した”Tremendo Vacilão“(トレメンド・ヴァシラゥン)は、ギターやキーボードが印象的なポップスですが、パーカッションは力強いファンキです。

この曲を聴くと、ファンキをポップスに落とし込むときに、どうしても「分かりやすくブラジルらしいリズム」が選ばれるようになって、リズムがワンパターンになっていったのではないかという気がします。

ところで、私がいつもお世話になっているブラジル音楽の本、ウィリー・ヲゥーパーさんの『リアル・ブラジル音楽』によると、2005年頃富裕層の若者の間でもファンキが流行りだしたとのこと(文庫版p.129)。2005年頃は、ファンキの国際化が進んだ時期とも重なっています。この「国際化」も、ブラジル国内のファンキに大きな影響を及ぼしたはずなので、また後の項目で扱います。

その前に、Funk melodyとはまた別の、ダンス・ミュージックとしてのファンキがどのような変化をたどったのか、2000年代初頭に話を戻して見ていきましょう。

【2000年代】今のファンキのスタイルが完成

2000年代前半は、今のファンキのスタイルが出来上がっていった時代です。ファンキといえば、今では「ズッチャッチャ、ズチャッチャ」というリズムが主流になりましたが、このリズムが定式化したのもこの頃。下ネタ満載の歌詞が流行したのもこの頃で、腰を振るダンスの基本的な振付が出来上がったのもこの時代のようです。

流行の変化については、「Furacão 2000」(フラカゥン・ドイス・ミウ)というレーベルの音源が参考になります。「Furacão 2000」は、ファンキのパーティーを主催したりTV番組も持っていたことで知られていますが、コンピレーションの音源もたくさん出しており、その音源を時系列でたどるとファンキの流行の移り変わりも知ることができます。

ここからはあくまでも私の印象なのですが、2000年代前半はマイアミベース由来の「ツンツクタンツク♪」みたいなリズムが多いのに、2005年前後から「ズッチャッチャ、ズチャッチャ♪」というアフリカ由来のリズムが主流となっていきます。

また、年ごとにいろいろなアーティストのファンキの音源を聴き比べてみても、だいたい2000年代初めから少しずつ「ズッチャッチャ、ズチャッチャ」が流行りだし、2005年頃になると主流に置き換わっていく印象です。

ここから、時系列で音源を見ていきましょう。

BONDE DO TIGRÃO – O BAILE TODO | DVD A FERA VOLTOU (PEPSI ON STAGE)

Bonde do Tigrão(ボンジ・ド・チグラゥン)は2000年代初頭に流行したファンキ・グループで、”O Baile Todo“(オ・バイリ・トード)は2001年のヒット曲のひとつです。

今となってはファンキ定番の「下ネタ系」歌詞で、何よりも曲からあふれ出すエネルギーがすごいですよね。このグループはMCだけでなくダンサーもいて、ダンスの面でも影響力があったようです。日本のエグザイルみたいな感じだったのではないでしょうか。なお、ここに貼った映像は2015年のライブのものです。

Tati Quebra Barraco – Boladona

Tati Quebra Barraco(タチ・ケブラ・バハーコ)の”Boladona“(ボラドーナ)、2004年の音源です。マイアミベース色が強いですが、同一のアルバム内には、もっと今のファンキに近い曲もあります。そのように「混在している」のがこの頃のファンキの特徴だと思います。

なお、男中心のファンキ界において、Tati Quebra Barracoと次に紹介するValesca Popozudaは、珍しい女性アーティストとしてフロンティアを開拓してきました。

Um Otário pra Bancar (Ao Vivo)

Valesca Popozuda(ヴァレスカ・ポポズーダ)の2005年のライブ音源。「popozuda」というスラングは「尻がでかい女」という意味なので、Valesca Popozudaは「デカ尻のヴァレスカ」みたいな名前です(ブラジルでは乳より尻のほうが女のシンボルとされています)。

姐さんの「がなり声」に迫力があって、最初のMCから引き込まれますが、「リズムが今のファンキと同じ」ということに注目して聴いてみて下さい。

ちなみに、動画で表示されているアルバムジャケットの写真は、全くの別人です。ライブの様子は、海賊版ですがこちらの動画でご確認ください。

【2005年】ファンキの国際的なヒットとDiploの功績

ファンキが世界的に有名になったのも、2000年代のことでした。2004年にはDJ Marlboroがヨーロッパやアメリカの各地をまわってライブをしており、もしかするとそれが「種まき」になったのかもしれません。

国際的なヒットは、イギリスから起こりました。2005年の6月、スリランカ出身のアーティストであるM.I.A.(エムアイエー)が、ファンキ風の曲”Bucky Done Gun“(バッキー・ダン・ガン)をリリース。

M.I.A. – Bucky Done Gun

この曲は世界中で大ヒットし、プロデューサーであるアメリカのDJ Diplo(ディプロ)も一躍「時の人」となりました

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ディプロはこの曲以降も世界各地の音楽やアーティストを「発掘」し、最先端のトレンドとして発信していきます。特にブラジル音楽に対する入れ込み方は注目すべきものがあり、あくまでも私の見解ですが、ディプロがブラジル・ポップス界に与えた影響は計り知れません。

例えば、ディプロの主催するレーベルMad Decent(マッド・ディセント)から、Bonde do Rolê(ボンジ・ド・ホレ)がアルバムをリリースしています。このグループのメンバーRodrigo Gorky(ホドリゴ・ゴーキー)は、のちにPabllo Vittar(パブロ・ヴィター)を世に送り出すプロデューサーとなっていきました。

また、ディプロはMajor Lazer(メジャー・レイザー)名義で、2010年代以降Anitta(アニッタ)Pabllo VittarMC Lan(エミセー・ラン)IZA(イザ)Ludmillaといったブラジルのアーティストともコラボしています。

こうした海外アーティストの「お墨付き」によって、リオのファヴェーラ発の文化が「ブラジルらしい最先端の音楽」として国内外に認知されるようになったのは、偏見も多かったジャンルの歴史のなかで、大きなターニングポイントになっただろうと思います。

最後に

まだまだ先は続くので、いったんここで区切ろうと思います。この記事では、2000年代までのファンキの歴史をたどってきました。

次の記事では、2010年代以降を見ていきます。その際、

  • サンパウロのファンキ
  • ファンキBPM150
  • Anittaに始まるポップスの新時代
  • ブレガ・ファンキ

という4つのテーマを扱います。

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