「キャンセルカルチャー」とは?
前の記事で、ブラジルのアーティスト、Karol Conká(カロル・コンカ)が、テレビのリアリティ番組に出演し、そのときの言動をめぐってSNSで炎上した後、フェスへの出場や出演番組の放映が中止になったということを書きました。
このように、有名人がSNSで炎上した後、単なる謝罪では事態が収まらず、社会的地位までも失わせてゆく動きのことを、最近は「キャンセルカルチャー」と呼ぶようです。
この「キャンセルカルチャー」は日本でもおなじみで、東京オリンピック開会式をめぐり、Corneliusの小山田圭吾氏も「キャンセル」されたのが記憶に新しいと思います。
東京オリンピック開会式の「小山田圭吾事件」
「小山田圭吾事件」について、ちょっと振り返ってみましょう。
2021年の7月、新型コロナウィルスが大流行し、世論調査では大多数がオリンピックの決行に反対する中、開会式の音楽をコーネリアスが担当すると発表されると、小山田圭吾氏の過去のインタビュー記事が取りざたされ、大会理念に反する不適切な人事として猛バッシング。数日後には、小山田氏が自主的に辞任することになりました。
東京オリンピックは、他にも不透明な人事、予算が問題視されており、スキャンダルや辞任劇に事欠かきませんでした。そのような中で、一部界隈では「障碍者いじめの人」として有名だった小山田氏の登用は、とくに激しく批判されたように記憶しています。
問題は、その後に何が起きたかです。小山田氏は、フジロックの出演がキャンセルとなり、音源のリリースは中止、音楽を担当していたNHKの番組『デザインあ』も放映中止となりました。
私は、あらゆるいじめが許せないし、過去のいじめを武勇伝のように語ることも許せません。
小山田圭吾氏の「いじめ自慢」も、いじめというより傷害や性暴力だし、酷いこと話してるな、そしてよくこんな記事を全国にばらまいたな、という感想しかありません。当時の悪趣味文化を引き合いに出しても、とうてい納得のいくものではないでしょう。
ただ、この一件で、一人のアーティストの活動の場をすべて奪うのは、それ自体がある種の「いじめ」ではないかと思っていたし、今もそう思っています。
それに、私はコーネリアスが好きです。ファンと言えるほどは知らないのですが、偶然なにか曲を聴いて、「この曲なんだろ、いいな」と思ったら、コーネリアスだった、という体験を何度かしていて、彼の音楽をすごいと思っています。
ただ、オリンピックの時期は、「彼の音楽はすごい」と言うだけで、「いじめを許すのか」という反論が上がりました。小山田氏の肩を持つのか、それとも社会的に追放するか。その二択しかないかのような、熱狂的な雰囲気があったように思います。
SNSとキャンセルカルチャー
最近は、SNSの出現によって、有名人のプライベートが可視化され、その「人となり」が重要視されるようになりました。誰かがすごく「いい人」っぽいと、その人の音楽も聴いてもらえる。逆に言えば、「いい人」でないと、その人の音楽の「商品価値」も落ちてしまう、というわけです。
また、SNSは、圧倒的な量の情報が日々流れていくなか、何か特定のキーワードだけで「いいね」されたり、フォローしてもらえたり、リムーブされたりする世界です。
たとえば、「コーネリアス」とTwitterで流れてきたら、条件反射的に「いじめは許されない」と返さないといけない。「コーネリアスは好きだけれども、いじめは許せない」みたいな複雑な発言は、誤読され、曲解され、いらぬ論争を巻き起こします。
膨大な量の情報から、とっさの判断でコミュニケーションをとるツールなので、しょうがないことだと思いますが、こういったSNSの特質は、極論に傾きやすくなるという欠点を持っています。
相手の落ち度を部分的に指摘する、みたいなことができず、相手そのものを否定する、といった極端な方向に傾きやすいのです。
そして、小山田氏のように、「悪人」という烙印を一度押されると、小山田氏の音楽自体も「商品価値無し」となり、市場から淘汰されてしまう。「悪人」の音楽など聴きたくない、そもそも小山田氏の音楽にそこまでの価値がない、だから音楽界から消えて当然だ、という理屈で、キャンセルカルチャーが猛威をふるうのでしょう。
でも、そういった理屈で、本当にいいのでしょうか?
作品と作者
作品と作者は、完全に別物だ、という考え方があります。
16世紀に活躍したイタリアの画家カラヴァッジョは、殺人を犯していながらも、美しい宗教画を描いていますが、現代、誰もその殺人の件を問いただし、展示を控えるよう訴える人はいません。
時代が過ぎれば、あるいは、遠くの場所で作られた作品であれば、今となっては作品だけが目の前に存在するのであって、それを手がけた作者のことはあまり気にならない──。それもまた事実だと思います。
でも、現代の、すぐ身近の作品であると、どうしても作者にある種の「倫理性」を求めてしまうのがファン心理というものです。
好きになった音楽のアーティストがいい人だと嬉しくて、もっと好きになるし、とんでもない酷い奴だと分かった瞬間、聴く気がしなくなる──。
ただ、とんでもない酷いことをしていたとしても、そのことについて「よく知らない」ということを自覚しておけば、音楽を楽しむことができます。
すごくヘンなことを言っているとも思います。「それはそれで無責任なんじゃないか?」とか、「知らないでいるなんて、バカみたいで恥ずかしくないか?」といった反論が、当然あるでしょう。
でも、「知らない」というのは、実はいいことなのかもしれない──正確に言えば、「全部を知ることができないとわきまえた上で、放置しておく」みたいなスタンスが、大事なのかもしれない──というのが、この記事で訴えたいことです。
Karol Conkaの炎上について、考えさせられたこと
日本在住の私は、もともとBig Brother Brasil(ビッグ・ブラザー・ブラジル)なんていうリアリティ番組の存在すら知らず、カロルコンカの新曲を聴いて、単純に「いいなあ」と思っていました。たとえば、次の曲です。
タイトルの“Dilúvio”(ジルヴィオ)というのは「洪水」のことで、つらいことが洪水のように押しよせても、あと少しで水が引いていくはず、というような歌詞になっています。なにか心打つようなところのある、普通にいい曲だと思います。
個人的には、初めてこの曲を聴いたとき、単純に音楽がいいのと、私自身、つらいことの洪水の中にいるような時期だったのもあって、月並みな表現ですが、すごく感動しました。
ところが、彼女がどうやら「渦中の人」で、この曲は「事件」の直後にリリースされたらしい、ということを知りました。
一体何が起きたのか気になり、夢中になって彼女の情報を追ってみると、彼女に対する誹謗中傷の嵐や、馬鹿にしたようなネットの記事が、次々とグーグルでヒット。この時点で、ショックを受けました。
「彼女に何が起きたの?彼女が何をしたの?」という疑問はつきず、BBBという番組の映像を見たりしたのですが、なにせポルトガル語がそこまでできないため、口喧嘩で何を言っているのかも正直よく分からない。
たとえば、カロルコンカは、共演者のブラジル東北部ノルデスチ特有の喋り方、ジェスチャーをからかい、多くの視聴者の反感を買ったようです。
でも、日本だと方言で笑いをとるのは普通のこと。また、私自身、外国で日本人らしい英語の発音を笑いのネタにされたり、日本人特有のジェスチャーをバカにされたこともありますが、しょうがないことだと受け入れてきました。傷ついた瞬間もありましたが、だからといって笑ったやつらをSNSで中傷して、挙句の果てに仕事をなくしてやろう、なんて思いません。
いろいろな記事を読んでも、ブラジルの文化に疎いせいか、彼女の何が問題でライブに出れなくなってしまったのか、最後までよく分かりませんでした。
そもそも、ラップは「バトル」だし、ブラジルで最も有名な女性ラッパーが、激しい口調で誰かを攻撃していても、全然驚かなかった、というのが正直な感想です。
そして、私自身がそういった感想をもったことと、現実に彼女がブラジルの圧倒的多数(99.17%)の視聴者から「No!」を突き付けられ、その後「キャンセル」されたということについて、ずっとモヤモヤしていました。
そしてある日、ふと、思ったのです。地球の裏側でまで、カロル・コンカの「悪かった点」を総括する必要があるのか?
そんな必要は、絶対に無いはずです。ある程度は事実を確認して、「そんなことがあったのか」と読み飛ばす程度で済むはずです。
おそらく、ブラジルに住んでいて、ポルトガル語を細かいニュアンスまで使いこなし、ブラジル独自の価値観を内面化した人たちにとっては、カロル・コンカが許せなかったのでしょう。
でも、語学の壁、文化の壁があるからこそ、私は地球の裏側で、カロル・コンカのことをそれほど嫌いにならず、音楽を楽しむことができます。
「分からないがゆえのおおらかさ」というか、正確に言えば、「すべて理解しえないと分かっているからこその寛容さ」みたいなものがあっても、いいのではないでしょうか。
コーネリアスを今、聴く
いま、東京オリンピックの騒動を全く知らずに、「コーネリアスっていいよね、最近よく聴いてる」と言ったら、「何も知らないの?」と返ってくるでしょう。
知らない、というのは、恥ずかしいことだとされているし、知らないでお金を払って楽しむのは、ときに無責任ですらあります。
でも、「こいつが悪い奴なんだとよく分かった、だからみんなで潰そう」とか、「視聴者として責任をもって悪い奴を成敗しよう」とか、そういうスタンスのほうが、よっぽど怖くないでしょうか?
全員に「いい人」であることを強制する世の中は、窮屈で息苦しいと思います。ひどいことをした人も、もう一度チャンスがある世の中のほうが、「いい世の中」であるはずです。
もちろん、悪事は裁かれ、改善されなければならないでしょう。いじめのような問題では、日本の学校文化がずっと、「いじめれっ子」の権利をないがしろにして、「いじめっ子」をかばってきたという経緯も考慮に入れなければいけません。
それでも、「いじめっ子」と認定された人をみんなでいじめる、というような事態は、矛盾しています。なんとなく「いじめっ子」っぽいから避けるとか、そういうあいまいな拒絶も、同様に「いじめ」に加担していると思います。
結論
長い記事になってしまいましたが、何が言いたかったのか、まとめてみます。
「何かをすべて分かったと思い込み、全否定していくことで、生きづらい世の中になってしまうのではないか。分からないと認めたうえで、分からなさを楽しむくらいのほうが良いのではないか。」
たとえば、カロル・コンカの母としての顔とか、友人としての顔とか、そういうものは、テレビの視聴者には分かりません。ましてや、アーティストとしてのポテンシャルも、計り知れません。
また、小山田氏も、当時通っていた学校がどのような状況であったか、そこで実際に起きていたことや、彼が自分のインタビューを心の中でどのように振り返り、年を重ねながら反芻してきたか、私たちには分かりません。
私自身、いじめられたことも、いじめを傍観したこともあり、いじめの話を聞くと、我が事のようで身体が震えるような感覚をもちます。そして、いじめてきた人は、きっとそんなことすら忘れて、のうのうと生きているのだろうなと思い、嫌な気持になったりします。
でも、だからといって、いじめをしていた人を、今から殴りに行ったりはしません。そんなことは不毛で、彼らの不幸を願うよりも、彼らのことなんて放っておいて、今の自分の人生を生きたほうがいい、と実感では分かっているからです。
だから、徹底的に誰かをキャンセルしようとする昨今の動きは、不健全で、良くないと思っています。
そして実際に、言葉の壁、文化の壁を越えたところで、なお聴かれる音楽があります。
ブラジルでは今、カロル・コンカのアンチが少なくないのかもしれない。けれども、彼女は精力的に創作活動を続けており、Spotifyではかつてないほどたくさん聴かれているようです。
同じように、コーネリアスの音楽だって、演奏され、放映されて、賞賛されていいのではないか。
そういう「ゆるさ」のある世の中のほうが、みんな生きやすいのではないでしょうか。
おまけ
ブラジルのドラァグ・クイーンのアーティスト、Gloria Groove(グロリア・グルーヴ)は、かつてカロル・コンカとコラボしたこともある友人です。
彼女の楽曲“A Queda”(ア・ケダ)は、カロル・コンカの炎上事件も意識しながら、キャンセルカルチャーを批判する意図で作詞された曲です(こちらの外部記事参照)。MVがグロテスクですが、そのグロテスクさも、また意味があります。
グロリア・グルーヴが梯子をのぼろうとするところを、マスクをかぶったダンサーが引きずり落とすとか、最後にはひもをつけて操り人形にしてしまうとか、そういった表現は、有名人が匿名でバッシングされたり、いいように操られる不気味さを表現しています。
長々とした記事ではなく、このような直接的な表現でキャンセルカルチャーについて問題提起できるのが、アーティストのすごいところだと思います。