カルリーニョス・ブラウンを知るためのキーワード
Embed from Getty Imagesブラジル音楽界の重鎮、Carlinhos Brown(カルリーニョス・ブラウン)の魅力に迫る記事の第二弾です。前回の記事では、8枚のアルバムを通して、カルリーニョス・ブラウンの音楽を紹介しました。
今回は、音楽家であり社会変革者でもあるカルリーニョス・ブラウンについて、その魅力を深堀りしていきます。どうしても彼のルーツがからんでくるため、歴史の話が多めです。
できる限り簡潔にまとめるため、8個のキーワードを用意しました。キロンボ、カンドンブレ、カンジアウ、チンバラーダ、プラカトゥン、ブロコ・アフロ、サンバ・ヘギ、アシェー、です。
色々な用語が登場し、読んでいて疲れるかもしれません。でも、この記事を読めば、ブラジルの黒人の歴史について、おおまかなことが分かるようになると思います。ぜひ最後までお付き合いください。
キロンボ
Carlinhos Brown(カルリーニョス・ブラウン)は、1962年11月23日、バイーア州サルヴァドールのカンジアウ・ペケーノ・ジ・ブロタス(Candeal Pequeno de Brotas)というキロンボ(quilombo)で生まれました。
この「キロンボ」というのが、まず最初のキーワードです。
ブラジル北東部(Nordeste、ノルデスチ)に位置するバイーア州のサルヴァドールは、かつて奴隷貿易がおこなわれていた港町でした。アフリカから来た奴隷船の多くが、まずサルヴァドールに寄港し、そこで奴隷が売買されたそうです。こうして人とカネが集まり経済的に繁栄したため、サルヴァドールには美しいコロニアル様式の建物がたくさん残っています。
Embed from Getty Imagesサルヴァドールのコロニアル様式の建造物が立ち並ぶペロウリーニョ広場
一方、サルヴァドールに連れてこられた奴隷たちは、農場主に買われ、プランテーション(大農場)で強制労働させられました。この労働が過酷で、逃げ出す人が出てきます。
Embed from Getty Images1750年頃のブラジルのコーヒー豆のプランテーション
捕まったら処刑されるのですが、うまく逃げることができた人たちは、集まって村を作っていきました。こうした逃亡奴隷の共同体を、「キロンボ」(quilombo)といいます。
ちょっと話がそれますが、アメリカ合衆国でも同じような奴隷制度がありました。ただ、アメリカ合衆国の場合、逃亡奴隷法という法律があり、「なんとしてでも逃げた奴隷を連れ戻す」という徹底した管理が州単位でおこなわれていました。一方で、ラテンアメリカでは、そこまでガチガチの管理がされていなかったため、逃亡奴隷が白人たちの目を逃れて勝手に村をつくる、ということが各所で起きたようです。
もちろん巨大化したキロンボは白人社会から危険視され、軍隊によって壊滅されることもありました。17世紀のキロンボ、Palmares(パルマレス)はまさにその一例で、軍隊によって滅ぼされ、リーダーのZumbi dos Palmares(ズンビ・ドス・パルマレス)は処刑されています。Zumbi(ズンビ)は今でもアフリカ系ブラジル人のあいだで英雄として語り継がれている存在です。
カンドンブレ
キロンボでは、アフリカの伝統的な宗教や生活様式が受け継がれ、独自の文化がつくられていくことになりました。
その代表的なものが、カンドンブレ(Candomblé)です。カンドンブレは、西アフリカのヨルバ族などの伝統をくむ宗教で、カトリックの聖人信仰も取り込んでいます。そしてこの宗教には、集団で太鼓を叩いたり、踊ったりする儀式がある、ということが重要です。カンドンブレの音楽やダンスは、ブラジル音楽に大きな影響をおよぼしてきました。
Embed from Getty Imagesカンドンブレの海の女神、イエマンジャ(Iemanja)をたたえる儀式、サルヴァドールにて
2005年にカルリーニョス・ブラウンは、カンドンブレで演奏される音楽を録音して加工し、音源をリリースしています。この音源を聴くだけでも、カンドンブレがブラジル音楽にもたらしたものの大きさを、うかがい知ることができるのではないでしょうか。
カンジアウ
カルリーニョス・ブラウンが生まれ育ったキロンボの地区、カンジアウ・ペケーノ・ジ・ブロタス(Candeal Pequeno de Brotas)、通称カンジアウは、サルバドールで最も貧しい地区のひとつでした。住民は、いわゆる「良い仕事」に就くことができず、上下水道のようなインフラも整備されていない環境で暮らしていたようです。
一方で、カンドンブレをはじめとするアフリカの伝統が守られており、広場では大人たちが日常的にパーカッションを叩いていたといいます。
そうした環境でカルリーニョス・ブラウンは、地元に伝わるパーカッションを大人から習う一方、ロック、ファンク、MPBなど様々な音楽を吸収して育ちました。
そして、1980年ごろからミュージシャンとしての活動を開始しています。あくまで楽器演奏者や作曲家としての活動なのですが、その実力はすぐにバイーアで評判となり、1989年にはCaetano Veloso(カエターノ・ヴェローゾ)のアルバム「Estrangeiro」(エストランジェイロ)の楽曲「Meia Lua Inteira」を作曲しています。
チンバラーダ
こうして裏方のミュージシャンとして成功する中、カルリーニョス・ブラウンは生まれ育った地元のカンジアウで若者たちを集め、広場でパーカッションの指導をおこなっています。「良い仕事」にありつけないなら、自分と同じように音楽で稼げるようになればいいではないか、というアイデアにもとづく社会実験的なプロジェクトでした。
そして1991年、指導した若者たちとTimbalada(チンバラーダ)を結成しています。チンバラーダは、当初40人ほどから成るパーカッション集団でした。グループ名は、アフリカ系ブラジル人のあいだに伝わる太鼓、Timbal(チンバウ)から取られています。
チンバウを大人数で叩き、爆音のグルーヴで聴衆を圧倒するその演奏は、たちまち注目を浴びていきます。1993年にアルバム「Timbalada」を発表すると、カルリーニョス・ブラウンの名前は全国的に知れ渡ることになりました。
ジャケットのインパクトが大きいですが、こういったボディ・ペインティングはカンドンブレに由来するものです。Timbaladaのメンバーも、ライブやカーニバルでボディ・ペインティングをします。
1998年のサルバドールのカーニバルの映像です。パーカッションの群団を率いる黄色いタンクトップの人が、カルリーニョス・ブラウンです。「こういうカリスマ性をもった人物が、音楽の力で人を集め、若者たちに人生の道筋を示したのか──」と思うと、私は胸が熱くなります。
プラカトゥン
Timbaladaの成功をへて、カルリーニョス・ブラウンは1994年に「Pracatum(プラカトゥン)社会活動協会」を設立しています。
この団体は、オフィシャルサイトによると、カンジアウで学校を運営し、貧しい子供たちに音楽や英語を教え、プロ・ミュージシャンを育成しているだけでなく、上下水道や道路、住宅、保健所などインフラの整備にもかかわっているとのこと。こういった団体をゼロから作り出したカルリーニョス・ブラウンは、単なるアーティストではなく、もはや社会変革者といったほうが適切かもしれません。
現在のカンジアウは、「カルリーニョス・ブラウンの故郷」、「音楽の街」として観光地化しており、外国人でも安心して滞在できる美しい地区となっているようです。
なお、カルリーニョス・ブラウンとカンジアウについては、2004年にドキュメンタリー映画が作られています。「El Milagro de Candeal」(カンデアルの奇跡)という題で、キューバ人アーティストがカンジアウを訪れるというスペイン語の映像作品になっています。サブスク配信で見ることができないようで、残念です──。どこかで配信してください!
ブロコ・アフロとサンバ・ヘギ
ところで、「音楽の力で地域を盛り上げよう」という取り組みは、Timbaladaが最初に始めたわけではありません。それ以前から、バイーア州ではアフリカ系ブラジル人が自分たちの音楽を復興し、カーニバルで演奏するという文化がありました。ブロコ・アフロ(Bloco Afro)です。
ブロコ・アフロは、その名の通り、アフリカ系ブラジル人だけによるカーニバルのグループで、「とにかく打楽器がすごい!」のが特徴だと思います。大人数でパーカッションを叩くその音は、録音だと迫力が薄れてしまいますが、きっとライブで目撃したら地響きのように聴こえ、全身が震えるのではないでしょうか。
ブロコ・アフロの先駆とされるのは、1970年代に結成されたIlê Aiyê(イレ・アイエ)です。現代風に言うと、「文化盗用される前の自分たちのルーツに立ち戻ろう」という強い使命感をもったグループで、音楽を通して自分たちの伝統と誇りを取り戻すというミッションをもって結成されました。
彼らは「レゲエの神様」であるBob Marley(ボブ・マーリー)を音楽面でも精神面でもリスペクトしており、そのためか、イレ・アイエに始まるブロコ・アフロの音楽は、サンバ・ヘギ(Samba Raggae)と呼ばれています。
ただ、私の印象では、決してレゲエっぽくはなく、サンバっぽくもありません。サンバの原型なのだろう野性的な音楽で、やはり「とにかく打楽器がすごい!」のが特徴だと思います。
Olodum
Ilê Aiyê(イレ・アイエ)の後を追う形で、世界的に有名なOlodum(オロドゥン)も結成されました。Olodumは、アメリカで特に愛されたグループかもしれません。1990年には、Paul Simon(ポール・サイモン)のヒット曲、「The Obvious Child」でコラボしています。
そして1996年には、Michael Jackson(マイケル・ジャクソン)の「They Don’t Care About Us」に参加し、ミュージックビデオにも出演しています。
スパイク・リーが監督したという、このミュージックビデオによって、「サルバドールといえばオロドゥン」というイメージが世界中に広まったのではないでしょうか。いまでもオロドゥンは、サルバドールの重要な観光資源となっているようです。
Ile Aiye、Olodum、Timbaladaというブロコ・アフロの系譜は、単にサンバ・ヘギという音楽だけで語ることはできません。音楽はあくまで彼らの活動のひとつの側面に過ぎず、もっと大きなミッションをもって結成されています。だからこそ、カルリーニョス・ブラウンも、単に音楽活動をやるだけでなく、教育やインフラ整備といった社会活動にたずさわってきたのだと思います。
アシェー
1990年代は、バイーアの音楽が国外から注目されただけでなく、ブラジル国内でも大流行しています。Axé(アシェー)です。アシェー・ミュージックのブームの中で、Ivete Sangalo(イヴェッチ・サンガロ)のようなスター歌手が登場し、カルリーニョス・ブラウンもTimbaladaの指導者・作曲家として注目されることになりました。
Daniela Mercury(ダニエラ・メルクリ)の1992年のアルバム「O Canto da Cidade」(オ・カント・ダ・シダージ)は、アシェー・ブームに火をつけたとされる大ヒット作で、カルリーニョス・ブラウンも作曲家として参加しています。
こうして作曲家として実績を積み、Timbaladaの指導者としても高く評価されたカルリーニョス・ブラウンが、満を持して1996年に発表したソロ・デビュー・アルバムが、「Alfagamabetizado」(アルファガマベチザード)です。収録曲「A Namorada」(ア・ナモラーダ)を貼っておきます。
最後に
Embed from Getty Imagesここまでお読みいただいてありがとうございます。
いまの日本で生活していると、音楽は、生きていくうえで必要のない「ぜいたく品」であるかのように扱われていますよね。でも、音楽こそお金が無くても楽しめるものだと私は思います。そして、音楽があるからこそ、自尊心をもったり、団結したりすることができます。さらに、貧困を改善したり、教育水準を上げたり、インフラを整えたり、新しい産業を作り出すことまで可能なんです!
世の中がどんなであっても、音楽の力で、身の回りから少しずつ変えていくことができるかもしれない。そんな希望のある現実を、カルリーニョス・ブラウンは見せてくれていると思います。